【聖徳太子の予言・未来記】と宗教を合わせて深読み!


コラムかエッセイ スピリチュアル 占い

1900年代でメディアへでてきたスピリチュアルな人々。

2000年代にはいってくると、匿名巨大掲示板にて予言者たちが現れはじめ、もはや私たちの生活の中へ『予言』というものが密着しつつあるなか、過去にあった多くの書物のひとつ『未来記』に予知が書かれていることに気づいた現代の人々。

書き手は聖徳太子。さて、彼はなかなかの天才だったと言われています。

彼の書いた予言についてちょっくら思うことがあり、どうしてここまで多くの聖徳太子の予言の記事があがっているのに、ここまで気づいている人が、なぜいないんだろう――?って思っていることを書きたく思いました。

聖徳太子よ、なぜ仏教を取り入れたんだ?

さて、まず。

聖徳太子に文句を言うところから始めたく思います。

なぜ、仏教を日本へ持ち込んだ!!!!!

ふぅ・・・・・。

予言の中にも「クハンダ」やらと書き込まれ、仏教用語も多く。理由は、聖徳太子自身が仏教を日本へ持ち込んだからでしょう。

日本の神道と仏教が共存し始めたのは、日本人の気質が、いっぱい神様いるから寛容的~!とかいうわけではありません。逆に日本人は、島国ですから閉鎖的な思想をしていると考えていいでしょう。

また、世間知らずともいえる。

聖徳太子が仏教を取り入れた経緯について

まず、仏教を持ち込んでみた聖徳太子。当時、推古天皇(女天皇ですね)のサポート(摂政ですね)をしていた聖徳太子。

聖徳太子「仏教やりませんか?」

推古天皇「とりあえず、拝んでみようか。」

これぐらいのテンションで仏教の寺が設置されました。

しかし、誰も拝まない・・・・・・。

日本人「得体のしれない神さんなんて拝めるか!」

普通の反応だと思います。まったく信心しなかったそうです。

しかし、あるとき、日本に疫病が流行り、人がバタバタと死に始めました。

日本人「も、もしかして、外国の神さん拝んでないから疫病が流行るんでねえのか……?」

焦った日本人たちはこぞってお寺に通い、仏を拝むことになりました。したらば、疫病が収まり――。

日本人「この神さんも日本を守ってくれるんだ!」

ということになり、仏教(儒教)と神道は同時進行で日本で信仰されることとなりました。

っていうのが一連の流れです。

メディアで多く、「日本人が一神教ではないからなじみが良かった」とかいうのはデタラメですね(*・ω・)

宗教学関係の本をあさってみると、これらしいことが書かれておりますので、ご確認ください。

日本の寺で葬式が多いのは、当時、疫病による信者が多かったからなのかもしれません? 予想でしかありませんが。

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神道と仏教(儒教)の混乱が現代では起きている

さて、日本に神道があったのに、どうして仏教を持ち込む必要性があったのか。

私自身、これがよくわかりません。そもそも、その思想(宗教ではありますが)は、まだまだ未完成のものであり、ちょっくらズレがあると思う。地獄的な概念を知った子供は恐怖を知り、その恐怖は生涯に及び、「怖いからやらない」といった感情的な支配を受けた子供が育っていくことになります。それって本当に神の教えなのでしょうか。

神道といえば、生活に密着したような形で「宗教」という教えではなく、神へ進む道を伝えています。

根本にある日本の宗教の思想的な混乱はここにあるんじゃないか――。

そんな邪推をしながら思うのは、神道大好きな人からすれば、『日本には神道があった。しかし、仏教(儒教)によって神道がゴチャゴチャしてよくわからない形になり、正しく伝わっていない状況になっている。怒』という感じです。

神さんは、血を忌み嫌いません。相撲で女を土俵にあげないのが正しいわけではありません。それは儒教の思想であり、神道では血を忌み嫌うことはありません。

つまり、グチャグチャです、思想が。それの原因を作ったのが聖徳太子といってもいいでしょう。

よく、聖徳太子は仏教をひろめた『偉業』を成し遂げたと書かれていることが多いのですが、それは仏教側の話であり、神道側はそこまででもないんじゃないかなと思っています。

これは趣味の話であって、どっちに肩入れするかは当人の趣向によって違うとは思います。w

予備知識として創世記を。

創世記は聖徳太子の未来記をささえる予備知識となっている

さて、予言について深読みしていく前に、聖徳太子にイラリとしている私の胸中を理解していただけた方はいらっしゃるだろうか。

こんなことをネットに書いて、ボコボコのケチョンケチョンにされなきゃいいけど……ブルブル。

では、このページを見ている方は、すでに聖徳太子の予言についてを読んでいるとは思いますが、おさらいだと思って、もう一度予言を読んでいただきます。

私の死後200年以内に、山城国に都が築かれ、1000年に渡って栄える。しかし『黒龍』が訪れ、都は東に移される。しかしその東の都は200年後、『クハンダ』が来て、親と7人の子どものように分かれるだろう。

『未来記』――聖徳太子 著書

さて、この文章の前半は、ほとんど解明されている状態のようですね。
『私の死後200年以内に、山城国に都が築かれ、1000年に渡って栄える。しかし『黒龍』が訪れ、都は東に移される』

↑↓

平安京が生まれ、千年間の長きにわたる平安が訪れる。しかし、それは黒船(ペリー来航)が訪れ、都市は東京に移される。

こんな意訳でしょうか。

アブラハムは七人の子について

さて、私が気にしているのは『その後の『クハンダ』が来て、親と7人の子どものように分かれるだろう。』の部分です。

あ、私。宗教学がなかなか好きでして、いろんな宗教の本を読みました。そのなかで思い当たる一致を発見したんです。たぶん、キリスト教に興味のある方は知っているはず――。

アブラハムには七人の子♪

ひとりはのっぽであとはチビ♪

みんな仲良く暮らしている♪

さあ 踊りましょう♪

『アブラハムと七人の子』

キリスト系の幼稚園でよく歌われる童謡です。

アブラハムとは創世記にでてくる男の人。その人には合計八人の子がいます。(七人ではありませんね。)

画像を貼りましたが、こちら、アブラハムの家系図です。

アブラハムの三人の妻が八人の子を産みました。

しかし、側室の長男であるイシュマエルを、アブラハムは正妻のサラに言われ、側室のハガルとその子供イシュマエルを荒野(砂漠)へ追放してしまいます。

残った子供たちにより『七人の子』の出来上がりです。

あ、正妻の子・イサクと後妻の子の六人は歳の差があり、ひとりはのっぽであとはチビです。

本当にみんな仲良く暮らしていたんでしょうか? ハハハ。

アブラハムの八人の子のうち、次男・イサクについて

さて、ここで重要になってきます。

アブラハムの七人の子になにがあったのでしょうか? これがわかれば、どのように『わかれるのか』がわかりますね。

まず、次男イサクから話しましょう。

イサクの父アブラハムの正妻サラは子供ができませんでした。だから、女奴隷を側室にもらい、イシュマエルをもうけたのでした。

しかしある時、

神「アブラハムよ、子供ができるぞ。」

とお告げが。とりあえず、アブラハムもそのときはひれ伏せたものの、

アブラハム「ハハハ。九十歳にもなる女房に子供なんかできるもんかね~笑」

と言いました。

神「できる。できる! 出来た暁にはイサク(彼は笑う)と名付けよ。」

と言って消えてしまいます。

そのとおりに子供ができ、イサクは誕生しました。奇跡のような出来事でした。

遅くに出来た子供、不妊症の妻にできた子供というのもあってイサクは溺愛されることになります。しかし、事件が起きます。

ある日のことでした。

神「イサクを焼き尽くし、捧げものとして供えよ。」

なんていうことでしょうか。溺愛している息子を差しだせと、アブラハムへ挑戦的な神。アブラハムはこれに従い、準備を進めていきますし、イサクも自身が捧げものとして殺されることを自覚しながらも悟り、あらがうこともせず――。

そんな親子に、直前で神は『おぬしの信仰を試しただけである。』と言わんばかりにアブラハムの刃物を振り下ろす行為を神の使いが止めます。

これを『イサクの燔祭』と言いますね。

さて、なぜ神はこんなことをしたのでしょうか。

ひとつはアブラハムが持つ信心を試すため、そして、人身御供の習慣を断つためだったようですね。

ちなみに、そんなイサクを殺そうとした(虐めたとも言う)のが、長男のイシュマエルです。それを嫌がり、正妻のサラは側室のハガルとその子供イシュマエルを荒野(砂漠)へ追いやります。

さて、ここまでで『七人の子の選ばれたひとり』はどうなったのかがわかりますね。

まず、イサクをからかったり、殺そうとした長男であるイシュマエルは、荒野へ追いやられてしまいました

それから、神に試され、生贄として差し出され殺されそうになりながらも、死を受け入れていたイサク。

このふたつは『キーワード』です。

アブラハムの八人の子のうち、六人はどうなった?

さて、正妻の子イサクは神の祝福により生まれた選ばれた子ということは理解できました。

そのあとに後妻ケトラは子供を六人生みます。

新訳聖書でケトラはアブラハムの子供を六人も生んでいるのに、なかなか影が薄いです。あんまり重要性を感じません。

アブラハムは、ケトラの子供たちはドンドンと東の国(アラビア半島らへん)へ移住させてしまいます。

後妻の六人の子は、イサクのように神の約束を受け継ぐ子供ではないので、聖地にいることが許されなかったのです。

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本題『七人の子と親のようにわかれる』とは?

さて、ここまで読んできた方々は「アアアアッ!」って思った方もいらっしゃると思いますが、まとめてみようと思います。

まず、アブラハムと七人の子は、すべての子供たちが引き離されたわけではありません

もう一度、聖徳太子の予言を読み返してみましょう。

その東の都は200年後、『クハンダ』が来て、親と7人の子どものように分かれるだろう。

『未来記』――聖徳太子 著書

親と七人の子供の「ように」です。

つまり、どのようになるのかは、創成期から読み取れる。よくバラバラにされるとか書かれていますが、違うと思います。

ひとりは、神との約束の子でした。

のこりの六人は、約束がありませんので、約束のひとりと引き離されて生きていきます

これが真実だと思います。

しかも、かぎって『東京』とされています。

一握りの人たちは神と約束をし、一握りの人たちは神との約束がないため、遠くへやられてしまう。その差があるということに着眼するべきだと感じます。

東京のなかで起きているのは、神との約束がある人たちと、神と約束のない人たちの差が明らかに分かれるということではないでしょうか。

それは住まう場所さえも違ってくるでしょう。

神と約束のある選ばれた一部の人たちとは?

モデルとして『イサク』がいます。

彼は子供時代に、側室の子イシュマエル(イスラエルでもある)にいじめられます。それを杞憂に感じた正妻は、イシュマエルとその母を砂漠へ追放します。

その後、イサクはアブラハムに神にささげられそうになり、死にかけそうになりながらも、それでも悟り、自身の境遇を受け入れていました。

いわば、これは『神との約束』がある条件のように感じられます。

  • 正妻の子。これは、妾の子でもなく、生粋の血筋であること。相続されるものがある。
  • 親が信心深いこと。
  • いじめられる。
  • 自身の境遇を受け入れ、死さえも受け入れる。

単純にするとこんな感じでしょうか。

逆に選ばれない一部の人たちもいらっしゃるかと思いますが、創世記から読み取りますと――。

自身が正しいと思い込み、人を差別する人でしょうか。

あの人は〇〇だから、宗教や人種、それから、家柄などで人を差別し、そして、自身は『自分はそんなことがない』という裏側を持っていること。

これは、六人の子たちのお話のひとつとして残っているものです。

ひらたくすると、悪口や陰口などのことも指しているように思います。

自身を棚上げし、人を天秤にかけていくことはよくないことのようです。また、そういう人は神と約束は持てないようです。

いわゆる、心が醜いとか、汚いとか。未熟という言葉が似あいそうです。

また、自身の親の功績で生き延びている人たちは、追いやられ、地方へいく。都内へ残ることは出来ない・・・・・・などもありそうです。

原因として血筋が有りそうです。

『クハンダ』について

さて、ここで『クハンダ』の謎が残りました。

クハンダとは、南方の増長天の一族であり、頭は馬、体は人の形をした地獄の鬼とされています。

画像はクハンダです。ちょっとかわいいとか思っているのは私だけでしょうか。楽しそうです。

神そのものを指してはおらず、つまり、個体ではありません。集団みたいなものです。そのクハンダ集団は、四天王である増長天に使えています。

ひとつ気になるのは、そもそも仏教に対して好感を持っていたからこそ、寺を建てた聖徳太子。その聖徳太子が、クハンダを悪の意象徴として扱うのでしょうか。

そもそも、クハンダは鬼は鬼ですが、一応、増長天さまにお仕えしている身。悪さをするのか・・・・・?

これは、どういうことなのでしょうか。

クハンダは人の睡眠妨げて、災難を引き起こす――などといったこともしているようですが、災難=人にとって都合の悪いことではありますが、神にとっては『至極まっとうなこと』でもある気がします。

『クハンダ』はやってくるけど、なにしてくれるの?

そもそも、親と七人の子のようにわけられることは悪いことなのでしょうか?

創世記のアブラハムと七人の子の話からすれば『神の子と神の子じゃないのをわける』ぐらいの感覚がしてきています。(うまれながらにして、神の子じゃなくても、ちゃんとした子は見放さないと創世記は教えてくれていますが。)

そのクハンダの災難とは、まさにアブラハムの子供たちに降りかかる火の粉のようなものではないでしょうか。

つまり、神の思し召しを受けて、私たち人間がどのような反応を示すかにより、神に愛されるか、否かの結論が出るということです。

聖徳太子の予言は、精神論でもあるのではないだろうか。

聖徳太子は『クハンダ』がやってきて、親と七人の子のようにわけられると未来記に書きました。

多くの人が災害が起き、バラバラにされると思っているようです。これはやっぱり、ちょっと違うんじゃないかなというのが私の目下の見立てです。

そして、この記事を書きました。

人間生きていれば、試練があります。これは神が用意した人間の持つべき特権でもあります。

我々、人は、心に必ず試練を抱えています。

例えば、チャンスを目の前にすれば、飛びつきたくなる。

女神の髪の毛は前髪しかない。

『ブッダとシッタカブッタ』

それはもちろん、イケメン高スペック男子が道端に落ちてたら私は拾いますが、もし、それが見せかけのツケメンであったら、捨てるでしょう。

そもそも捨てることが悪いことならば、拾わなきゃよかったんです。

拾ってしまったのは、目先のチャンスにとらわれることにより、真実を見抜く目を失っていたからです。

人は、みな、精神的にネックとして抱えているものがいくつかあります。

先ほど述べましたように、人と比べ、人を見下し、自身はそれよりも優れていると感じていること。

それは、人としての心の悪であり、宿痾です。

人は誰かよりも優れているだなんてことはありません。誰しも同じ「人」です。

人類みな平等というのは、政治家の言葉です。一般人の私たちが発する言葉ではありません。目の前にいる人間と自分が『同等なものを持っている』わけがありません。

つまり、みな平等であるわけがありません。それに気づいている、もしくは気づいているけど認識はしていない人たちは、『この人は自分よりも劣っているから』と、自身の悪を持ち、悪口や陰口を叩きます。

お金を持っている人もいれば、持っていない人もいるのです。

そして、知能が低ければ低いほど、自身は人よりも優れているといったような認識の間違いを起こします。面白いですね。

人は誰かよりも優れているわけでもなく、劣っているわけでもありません。人は人です。

しかし、人類みな平等であるかというと、そんなわけがありません。

矛盾の中にある正義を私たちは見極め、考えていかなければなりません。

クハンダとは、自分のなかに住まう『心の悪魔』を呼び起こすキッカケだとは考えられませんか?

予言の意味をわかりやすく簡略し、まとめる。

生まれながらにして、イサクのように神に愛されたように育つ人が生まれ、

反面、生まれながらにして、神に選ばれていない子がいる。

ふたつの明らかなる背景として、血筋が関係しているが、いわばこれも運命。

心の在り方は、ふたつの隔たりとして存在し、人口密度としては神に選ばれない子のほうが多いだろう。

イシュマエルのように神の子として扱われながらも、悪いことをすれば追放され、心の在り方ひとつで神に愛されることもある。

そんなことが、これからの東京では起きていく。

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