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小説を書くために必要な気質やスキルを精神科医に聞いてみた。

『小説を書くために必要な気質やスキルを精神科医に聞いてみた。』はさんろによって2019年12月15日に書かれました。 2021年11月16日に更新しています。
小説を書くことが出来る人間はどれだけの人口なんでしょう。
まず、文章を書くことができる人間は限られています。
フェイスブックなどで「たのしかった!」や「おもしろかった!」という感想を写真と共に挙げている方がいらっしゃいますね。それは、書けない人です。
反面、自分の嫌な出来事が起きたとき、人はグチグチグチグチと書きます。ついったーなどでも、恨みつらみを書き上げる人って結構いますよね。
これは書ける人が、あまりやらないことかなあと感じます。
さて。小説を書くために必要なスキルってあるんじゃないかな? ということを疑問に感じ、心療内科に通っているので、精神科医に聞いてみました。
私と先生は十年来のダチ――ではありませんが、1時間ぐらい文学について語れるぐらいには仲良し化と思います。先生は知に深い方で、とても理性的な先生で面白いです。しゃべっていると声がだんだん小さくなっていきます。笑
そんな先生に『小説を書くために必要なスキルってなんですか?』と聞いてみました!
先生、文章が書ける人と書けない人の違いってなんですか?
不幸な人は文章が書けるけど、幸せな人は文章が書けないね。
先生の理性的な爆弾発言が投下された瞬間、先生の診察室で笑いが沸き起こりました。
それじゃあ、先生! 私が不幸みたいじゃないですか、ウケる!!!!!
私がそういえば、先生はちょっとだけニヤっと笑って、これ以上にこのことには触れませんでした。というか、私もこれ以上は聞きませんでした。笑
前置きとして書いていますが、人って愚痴はいっぱい書けるけど、幸せなことは書けません。
そう、不幸なことは書けるんです。いっぱい。ぐちぐちぐち書き続けることが無限大にできます。
よって、文章が書ける人っていうのは不幸な人の代名詞なんでしょうね。
でも、小説を書く人たちは、不幸なこと以外にもいっぱい書きますよね。といっても、幸せな話を書いても売れないですから、基本的に小説は不幸な出来事ばかりですので、不幸な経験が小説になっているっていうのも事実です。
先生、小説家に分裂気質って必要ですか?
うん、小説の種類にもよるね。過去の史実に基づく小説は、分裂気質じゃなくても書けるね。いわゆる歴史小説とか。でも、創造性のなかにある小説や精神的なものを描く小説は、分裂気質でないと書けないね。
え、先生。そもそも分裂気質って、平たくするとどんな感じですか?
内向性の強い性格の人のこと。外向的な部分よりも内向的な部分を重要視している人たちのことを言うかな。あんまり難しく考えなくていいよ。
つまり、先生の言う分裂気質っていうのは、『精神的なものを重要視して生きている人たち』のことらしい。
例えば、人と会話することよりも、自分の心と対話するほうが好きだったり。
そとへ遊びに行くことよりも、ひとり遊びすることのほうが好きだったり。
よって、分裂気質の人はボーッとしているっていう言い方をするみたいです。
なるへそ・・・・・・。
つまり「うれしい!」とか「たのしい!」とかをもっと砕いて理解していることが多かったり、自分の心に何が起きているのかを説明することが得意でないと小説は難しいっていうことなのかもしれません。
そして、歴史小説などの過去の史実にもとずく小説は、創造性からまた少し変わってくるらしく、脳みそを使っている場所も違うようです。
私は小説を書いているとき、心がブルドーザーでガリガリと削られている気分になります。これは、分裂気質の持つ感覚のようです。限界ゲージが近い印です。
また、説明文(この記事のようなもの)を書いているときは、なにも感じません。ブルドーザーでガリガリ削られているのは――時間でしょうか? 笑
先生、小説を書くのに必要な技術ってなんですか?
まず、語彙力。これは絶対的に欲しい。
もはや精神科医に聞くべき内容ではないかもしれませんが、文学が好きな精神科医だからこそわかるのか? まずは語彙力だそうです。
絶対的に語彙力だそうです。これなくして、小説を書くことは出来ないのだそうです。
これについて少し掘り下げようかなと思い、語彙力とはなにか? について書こうと思います。
スキル1:語彙力とはなにか?
語彙力とはそもそも、単語力みたいなもんだと思います。
英語で考えてみると、単語帳でいくつ単語を覚えられたか、みたいなものです。
しかし、これって『本当の意味で使えているのか?』って英語圏内なのでよくわかりませんね。
それじゃあ、語彙力があるとは言えません。
ここで箸休めをいれます。
2019年にNHKでアニメ化しているヴィンランド・サガ(公式サイト)を見ていたところ、キリスト教の神父(25歳とかだったかな)が『愛とは』と伝え続けています。
私たちは家族愛だとか、恋愛だとか。ほかにも友人関係のなかにも愛があると唱えていますが、ヴィンサガのなかで、キリスト教のなかでは『死してようやく愛を知る』と言っていました。
死んだあと、ようやく屍になり、朽ち、動物たちに文句なしに与え、地に戻っていく姿こそが愛だと言うんです。
あれ? これって『無償の愛』じゃない?
しかも、作中では家族に対する愛は『差別』だと言うんです。
これが『語彙力』です。
私たちは、愛を一括して『人に愛情を与えること』みたいな感覚を持っていますが、その愛のなかには『無償の愛』があり、『差別』があり――。
それを一択して私たちは『愛』と呼んでいます。
これが語彙力があるか、ないかの差です。
ヴィンランド・サガの作者、幸村誠さんは語彙力があるといっていいでしょう(アニメ化されるんですから当たり前だとは思いますが。笑)
実は、文章のなかで表現するために語彙力が必要ではなく、表現する以上に、深みを持たせるためにも語彙力が必要なんです。
ほかにも、語彙力とは単語力ではなく、それを使いこなせているのかも重要です。
その言葉の意味を本当のところで理解できているのかが重要なんだと思います。
例えば、『すごく』と『ひどく』の違いなどでしょうか。
私たちは『すごいおいしい』と言いますが、『ひどくおいしい』とは言いませんね。
でも『すごくかなしい』と言いますが、『ひどくかなしい』とはあまり使いません。
しかし、『ひどくかなしい』は使われる単語なんですよね。古い書物読んでると結構多いですね。
これは『酷い』と『非道い』の違いを私たちは理解しているようで理解していないからかもしれません。
前に『酷く悲しい』と言い、『凄く』と訂正された過去があります。
『凄み』を持って私は悲しかったわけではありませんでした。
その人は『非道く悲しい』と脳内変換されたのかもしれませんね。
ちょっとした言葉ひとつでも、こんなにも認識が違うことがあります。正しい日本語をつかえているようで使えていない現代かもしれませんね。
スキル2:教養
それから教養。これも小説を書く上で必要。
私の先生は、教養になかなかうるさいです。ちゃんとしろっていうことですね、人として。やはり、精神科医ですから、精神的な領域をしっかりと知識を持ったうえで心を保ちなさいということを教えてくれます。
トーマス・マン(代表作は『魔の山』、ドイツの教養小説ですね。)の作品のひとつ『トニオ・クレエゲル』について「知らない」とか言ったところ、先生は私に『案外、教養ないね。』とか言いました。笑
先生、結構、ひどいこと言います。笑
先生の教養というハードルが高い気もしますがトーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』について抜粋で、ご紹介させてもらおうと思います。
ちょっと長いかもしれませんが、とても大事ですので読んでもらいたいです。
リューベックというドイツ市民階層の発祥の地を舞台としたこの小説の主人公は、トニオ・クレエゲルである。リューベックの姪家クレエゲル紹介の子で、父は名誉総領事であった。トニオの母はイタリアの女性でここにもドイツ市民階層の上流層があこがれていた南欧の血がある役割を果たしている。
トニオは同級生のハンス・ハンゼンに憧れている。彼も豪商ハンゼン家の一族で、体操や水泳に秀で、誰からも好かれる少年であった。インゲボルグ・ホルムはホルム博士の娘で、トニオはこの娘にも強く憧れていた。
しかしシラーの『ドン・カルロス』を読んで涙を流すトニオと乗馬に熱中しているハンスとの間には抜きがたい距離があったと後にトニオは考えている。
成人して作家となったトニオは、ある日故郷のリューベックを訪れる。そこで子供のころの自分のハンスやインゲボルグに対する思いを想起し、それらの俗人(※情緒なき人たち(笑))たちに対する熱い思いを捨てがたく思いながら芸術こそ自分の生きる道であるという確信を抱くのである。
「世の中には凡庸性の法悦に対する憧憬(※至るところにはびこっているこの上ない喜びたいして憧れを抱くこと)を、ほかのいかなる憧憬よりも、さらに甘くさらに味わい甲斐があるように感ずるほど、それほど深刻な、それほど本源で運命的な芸術生活があるということを」(実吉捷郎訳・岩波書店)考慮してはどうかと。
トニオもマンもドイツ市民階層の出身である。市民階層はドイツ中世後期に自らの足場を固め、後には貴族に匹敵するほどの地位を築いた。しかし、彼らはそれでも貴族ではなく新興階層であった。その中から教養を身に着けた階層が台頭(※勢力を上げてくる)してきた。トニオがしばしばいっているように「自分たちは緑色の馬車に乗ったジプシーではない」と自らを規定するこの階層は働く必要がなく、自分たちの出身母体である市民階層を軽侮(※人をばかにして見下げること)しながらも自分たちの生活の足場がないことに痛みを感じていた。
いわば、この小説自体がドイツ教養市民階層の自画像なのである。マンは教養市民階層の発端に立っていたから、まだ「いかに生きるべきか」という問いにこだわりがあった。
しかし、やがてこのようなこだわりが消え、文学ですらこのこだわりとは関係なく営まれるようになった。『「教養」とは何か(Amazon link)』著者:阿部謹也から抜粋
※長いの改行無くして読みにくく。独断にて、改行を入れさせていただいております。また、ちょっくら意味が難しいかな? と思う部分には括弧にて、ひらたくした意味を乗せています。著者の阿部さん、ありがとうございます。迷子の私にとって、とても良い本でした。
けっきょく、トーマス・マンは、トニオ・クレエゲルに自身を重ねたのかもしれません。
市民階層からのしあがり、貴族ほどの地位を築きはしたけど、それでも、貴族ではなく。しかし、そのなかで教養を持った人たちがより強い立場に立って行くこと。
つまり、教養なくして人のうえに立つことは出来ないということでしょうか。
トニオ・クレエゲルが『自分たちは緑色の馬車に乗ったジプシーではない』と言っていますが、これは『自分たちは皆、人間だ』ということが言いたいんです。
みんな同じ人間なのに、どうして、立場が違う人を見下すのか――。そんな問いかけをしています。
じゃあ、教養ってなんでしょうか?
『いかに生きるかの問いかけ』にあると、抜粋させてもらった『「教養」とは何か?』では訴えています。
トニオ・クレエゲルがもし、ドイツの教養小説だと言うのであれば、なにか学べるものがあるということですね。
「世の中には凡庸性の法悦に対する憧憬(※至るところにはびこっているこの上ない喜びたいして憧れを抱くこと)を、ほかのいかなる憧憬よりも、さらに甘くさらに味わい甲斐があるように感ずるほど、それほど深刻な、それほど本源で運命的な芸術生活があるということを」(実吉捷郎訳・岩波書店)考慮してはどうかと。
再び、抜粋させていただきます。この内容をもう少し平たくさせてもらいます。
いたるところにはびこっている喜びを、味わい深く感じることこそが、芸術生活なのではないか? と深く考えてみる意味があるんじゃないか。
トニオ・クレエゲルは、このように小説家として意味を持たせています。
これは、トニオが得た「いかに生きるか」の答えなのだと思います。
小説を書くにして「いかに生きるか」の意味は人それぞれ違うと思いますが、「なぜ書くのか」「なぜ書かなくてはならないと思っているのか」「なぜ書きたいのか」、その問いかけは、小説家にとって必須の教養ある問いかけなのだと思います。
また、その問いかけを読者に訴えかけ、教養の形を促すことが小説を書く人の役割なのかもしれません。
余談ですが、私がなぜ小説を書くのか、この問いについて私は以下のように答えます。
生きてきた証拠みたいなもの。私が考えて、得てきたものを証明していくため。その結論がすべて小説に詰め込まれ、私の人格そのものを肯定し、次にそれを壊し、その次の段階へ飛んでいくために私は書かねばならない。
何のために書くのか。金か、名誉か、出世欲か。みなそれぞれ違うでしょう。
教養ある問いかけとして、まず「あなたはなぜ書くのでしょうか?」という問いを考え、悩み、ひとつの結論を導き出し、再考し、何度も練り直していってほしいです。これが深みを持つ人の持ち得る『教養』であり、完成されることのない練度の高い語り継がれていく教養なのだと思います。
また、抜粋の最後にて
マンは教養市民階層の発端に立っていたから、まだ「いかに生きるべきか」という問いにこだわりがあった。しかし、やがてこのようなこだわりが消え、文学ですらこのこだわりとは関係なく営まれるようになった。
と、しめられています。これは悲しきことかなと思います。
文学とはなんぞか。文学のひとつの価値をなくして、読書の意味があるのか? 面白い、楽しい。それだけではいけんのではないかと最近感じてはいます。
そういう意味で、先生のいう『教養が必要』というのは、現代の文学において不必要ともとれます。しかし、すごく大事なことだと思います。
スキル3:経験
経験も必要。創造ってね、無限じゃないんだよ。途中で途切れちゃう、なくなっちゃうんだ。それを作り出す努力をしなくちゃいけない。三島由紀夫はよく旅行にいってたね。
三島由紀夫についてめちゃくちゃ調べた時期がありました。
二・二六事件を調べまくっている最中、作品を書き上げてあと、彼は自衛隊基地で自害をしました。
そのことにすごく興味があり、二・二六事件についてもすごい調べました。笑
三島は作品を書く前には必ず現地を訪れています。そして、当時としては珍しく、よく世界旅行に出かけていました。
このことを私の先生は「経験がないと人は書けなくなる。創造の根源は経験にある。」と言っていました。
その努力をしなくてはならない、と。
私たちは、生きている中で生きている世界でしか物事を判断することしかできません。しかし、小説はもっと広く、もっと多くを知らなくてはなりません。
それが語彙力に繋がり、その語彙にたいしていくつ思考したのかにより教養が変わっていきます。
つまり、経験というものは確実に重要だと言うことでした。
先生、小説を書くには才能が必要ですか?
そもそもだけど、文章を書けるだけで才能と言えると思う。書けたとしても、論理的に伝わらなかったら意味がないけど。だから、あるのだとしたならば、言葉のチョイスとか。そういった文章のセンスは必要だと思う。きれいな文章を書く人は本当にきれいだから。
なるほど。
では先生、リズム感とか必要だとは思う?
あー、たしかに。リズム感とか必要かもしれないね。文章にもあるからね、韻を踏むリズムが。三島由紀夫は本当にピンセットで一字一字を選び抜いて置いていったような文章を書くからね。
三島由紀夫は、子供のころからお母さんに詩などの韻の踏み方などを教えられていたようです。それが形になって、とてもきれいな文章を書いていますね。プラス、独特な環境下で育った彼の人生から分裂気質はさく裂し、小説を書いています。
私の友人は、三島由紀夫をカリスマ性のある小説家と言っていました。
先生、ハイパーグラフィアと思考促迫は小説を書くことに向いてますか?
そういう意味でハンパーグラフィアっぽくて、自動思考が止まらないあなたは、ものすごい才能だよね。小説家としては一番欲しいかもしれない。
なるへそ。
私の脳みそは、文章を書かないといられない脳みそをしています。しかも、嬉しいことやひらめき、また、先生との会話をここでは書いていますが、楽しかったことなどをことごとく書き記し、また、意味あるものだととらえ、考え続けています。
そうした文章を書かないとやっていられない、書かずにはいられない脳みそをハイパーグラフィアと言いますが、プラス論理性を持ち得ている人は、才能豊かな作家となるとも言われていますね。
そして、思考促迫。私はずっと考えていて、言葉がずーっと並んでいます。ずーっと、頭の中にお友達がいて、おしゃべりをしています。
普通の人はもっと頭のなかが静かなのだそうです、私には想像がつきません。その静かではない脳みそは、これまた才能なのだそうです。
思考促迫を持っている人は注意してほしいこと。
思考促迫は脳みそが止まることはありません。おかげで、IQがちょっくら高かったり、記憶力がよかったり。
おかげで、ずーっとなにかをし続けることも得意ですし、ぼーっとしていても考え事をしています。
そういう人が小説を書くと頭がパーン!と行きます。もちろん、集中して書きすぎてです。
確かに、自動思考をする人は思考がうまいです。人よりも長く思考することが得意ですけど、脳みその耐久性は普通の人と同じです。
マラソンランナーが疲労骨折をしないだなんてことは断言できません。むしろ、メンテナンスが超大事ですよね。
同じように、脳みそが破損しないだなんて断言できません。脳みその許容範囲が無尽蔵に高いっていうわけじゃないんです、普通の人と同じです。やりすぎる傾向にあるので、注意がすごい必要です。
よって、どれぐらいが書ける時間なのか、書ける量なのかをちゃんと見極めておく必要性があります。
私が書きすぎていると、弦楽器の弦が張り詰めていく感じがします。そして、それがいつかパーンって切れちゃうと思う。それが切れてしまえば、私の心は壊れてしまう――という感覚がします。
そんな話を先生にしたところ、
電池が切れちゃうようなもんなんだろうね。一日何文字ぐらいならば、書ける?
と聞かれました。
私の場合、小説が書けるときは二万、三万文字と文字をつらつらと書き連ねていきます。そうすると、心の弦が切れてしまいそうになる。その後、数日小説が書けなくなります。
一週間ほどすると回復して、書き始めます。
なにも感じないのは五千文字程度かな、と言うと、先生は一日五千文字程度にして小説は書いたらいいのかもしれないと言いました。
逆に、説明文(この記事のような)ならば、なんにも問題がありません。
何度も書いていますが、小説は心をブルドーザーでガリガリと削っていく作業なんです。心(脳?)が壊れてしまいます。
説明文を書くことと小説を書くことは、脳みその使っている分野が違うんだそうです。
小説を書くって大事なこと?
さて、最後に『小説を書くことは大事なことなのか?』の問いかけに答えを求めようと思います。
読者は『読むこと』を欲することがあるかもしれませんが、小説家は『書くこと』を欲していることが多いと思います。
かくいう私は「なんでもいいから書かねばならない」というよくわからない欲求に駆られているし、「知らなくてはならない」という強迫観念を抱えています。
新しい知識を見つけるたび、賛美しては落ち込み、衝動的な涙がこみあげてきます。絶望を感じます。
こんなにも世にたくさんの知識があること、自分がこんなにも無知であることを知り、それがしんどくてしんどくてたまらないです。
知れば知るほど、気づけば気づくほど、落ちていく穴があり私は辛くてたまりません。
それなのに、どうしてこんなにも『書きたい』のか。『知りたい』のか。
そうしてみると、私はなかなかに不幸な人間だと思います。
小説を書くことでしか発散できないものがあります。心に抱えた問題は、小説を書くたびに明確化され、また、人の目にさらされていくたび、恥を知る。
この感覚を何度も何度も繰り返していく作業にほとほと疲れ切っています。
それでも、私たちは書きますね。
なんででしょうか、小説を書くことは、私たち、作家にとって『生きること』なんですよね。
この世は私にとって小さな絶望をかき集めた世界です。しかし、書くことで絶望がどこかきらきらした願いのような形に集結していくたびに、まだ生きられる気がします。
ちょっと美的に書きすぎたでしょうか?
書かなくてもいられる人は、幸せな人たちです。
そして、書かねば生きていけない人は、不幸な人たちです。
でも、小説を書けるだけ幸せな私たちがいるんです。
『言葉は神である』聖書の冒頭はこのように始まります。
小説家は、文章を書く人は、作家は、神を愛しているのかもしれません。
以上