文章を書くことは才能なのか?それとも経験なのか。


コラムかエッセイ

私たちは身近で文章を書くことができる人を「あの人は文才がある」という。「文章を書く才能がある」という言葉が存在するだけあって文才は存在するのかもしれないが、文章を書くということはどういうことなのか?を心理学の先生に問いかける機会があった

そのときの先生の言葉は、私の中ではかなりしっくりくるものがあり、じゃあどうしたら文才はどういう仕組みで生まれてくるのかがわかったような気がしたので、それをまとめて書いておこうと思います。

文章を書くことができるのは才能です。

最初から言い切ってしまうのも・・・・・・と思ったが、結論から。先生はそう言い切ってしまったのだから。

文章を書くことができるのは、才能です。文才は存在します。

では、文才とは何なのかを説明しよう。

文才とは、

  • 自分の経験を文章としてまとめあげることができる
  • 小説といった想像上の出来事を文章にしてまとめあげることができる

の2点です。

感情を揺さぶってくる文章を書いてきやがる。

自分の経験を文章に起こす行為を、SNSなどで私たちは頻繁に行っていると思う。その中で文才をひと際目立たせる人というのは、読んでいる側が同じような実体験を得たような感覚になる感情移入をしてしまうついつい読んでしまって最後まで読み切ってしまう、といった3つの現象を起こしてくる。

どうだろう、あなたの身近にそんな人はいるだろうか、それともあなた自身が人に言われることがあっただろうか。

文才を持つ人とは、人が文章を読んだときにしっくりくる形を知っている人である。それは文章能力に長けているということにつながっており、客観的に物事を考え、人が読んだときにどう感じるかを文才を持つ人は本能的に知っているとすら感じる。

平たく説明すると、文才とは、読み手の感情をコントロールしてくるっていうことだ。

小説を読んだとき、私たちはワクワクドキドキすることや悲しみから涙を流すことがある。SNSなどで小説をあげることはないのでそこまでとは言わないが、どうしても最後まで読まないと気が済まない文章何度も何度も読み返してしまう文章を書いている人はあなたの心を揺さぶってきているそれを文才というのだ。

まとまってて読みやすいじゃないか。

キーワードの2つを読んでお気づきになった人はいるだろうか。

もう一度キーワードをあげてみよう。

文才とは、

  • 自分の経験を文章としてまとめあげることができる
  • 小説といった想像上の出来事を文章にしてまとめあげることができる

の2点です。

どちらも「まとめあげることができる」と書いてある。そう、最後までしっかり文章を書き上げることができる人たちが文才を持っているということだ。

最初に現状をしっかり述べ、結局どうなってしまったのか、まで書く。

前述している感情を揺さぶってくる書き方も才能のひとつだとは思うのだが、それ以上に文章をまとめ上げ書き上げるということは才能の中の才能だと私は感じている。

まとめあげることって簡単ジャン!って人は感じているようだが、ただ纏めればよいっていうわけではない。まとめあげたときに人に伝わりやすい文章構成になっているかが重要なのだ。ただ書けばよいわけではない、人に伝わりやすい構成でなければ、文才とはいえない。

起承転結という文章を書くための基本がある。物語は、はじまりから結論にいたるまでのストーリーがしっかり成り立っていることがまとまっているということだ。

なぜまとまっていなければならないのか、それは不特定多数の人が読むとき、自分しかわからない文章構成となっていればその文章は評価されることがない。

もし、小説や文章を書くことが芸術だというのであれば、誰かひとりでも評価してくれることがあればその人は作家だといえるのかもしれない。しかし、それではたった一人だけの為に書かれたものが才能と呼ばれるか?といわれるとノーだ。世の中は多数決でできていることを忘れてはいけない。わかりやすさ、読みやすさというのは、どの時代であっても必要最低限必要なものだ。

このまとめあげる作業というのは、論理的思考のもとに生まれてくる考え方のひとつ。

とても読みやすい文章を書く人というのは、論理的な人が多く、人はとっちらかった感情的な話よりも論理的に説明された話のほうが理解しやすいということがわかる。

創造・想像力って必須項目は作家だけ?

作家は創造力・想像力を使って文章を書き上げていく。小説は想像したことを文章として書きあげていくのだ。

その想像力は、誰にでも備わっているわけではない。すぐに妄想にふけってしまうような人、予測ばかりをして怖がってしまっている人というのも想像力があるということになるが、自分自身の想像力に振り回されている場合、それは才能とはいえない。それは妄想という。

想像とは、自分の思い描きたいように思い描き、それを展開していくことだ自分のコントロール下にある想像は、才能といえるだろう。

しかし、前者の妄想的な人たちであっても、振り回されることをやめコントロールできるようになれば、きっと想像力となっていく素質を備えているということだ。幼少期に多くの不幸が多くのしかかり、恐怖感や劣等感といったネガティブな状態からたくさんの名作を生みだしてきている有名な小説家もいるため、一概にもそれは才能といいきれないのが心苦しいが、そんな状態で名作をつくりだしても自分が壊れてしまってたら意味がないでしょう!っていう私の意見もちょっとは採用してほしい。

見出しに戻ろう、作家だけが想像力を必要として文章を書くのだろうか。

説明文であっても、SNSの書き込みであっても、文章を書くということは絶対的に想像力がなければいけないことを忘れてはいけない。

文章を書くというのは、自分だけではなく人の目に触れたときのことを考えることが必要だ。自分のメモの走り書き以外であれば、必ず人の目に触れるものだろう。

人の目に触れたときの想像を書き手は必ずしているのだ。そして、読みやすい文章を書く人たちを文才というのであれば、感情を揺さぶる・まとまっている、このふたつを想像力によって補い、文章を書き上げていくことをしているはずだ。

私は、小説家に一番必要なのは想像力、次に構成力だと思うが、SNSなどで見かける文才がある方というのは一番に構成力、次に想像力だと思っている。

ところで文才のある人たちの脳はどうなっている?

これは私の疑問のひとつだ。文才ってどういう仕組みの脳なんだ・・・・・・?ということ。

筆者はそこまで脳について詳しくはないのだが、こういうことが起きているのかな、という私の考えを書いてみようと思う。

右脳と左脳を皆ご存知だと思う。

右脳は、想像、信じる、アナログ、直感といった「感覚脳」のこと。ほかにもイメージなどをつかさどる。

左脳は、現実、疑い、デジタル、分析といった「論理脳」のこと。ほかにも言語などをつかさどる。

右脳と左脳はそれぞれ専門特化しているわけではないと近年の研究でわかってきたが、考え方としては右脳左脳の考え方はとてもわかりやすい。

右側の脳と左側の脳が存在しているということよりも、感覚的なことと論理的なことは対峙して存在していることを重要視したいということだ。

では、その2つが対峙している中、それぞれが文章を書く上で必要なことを述べてみよう。

右脳から必要なキーワード

想像力、感覚、直観力

この3つは、どれも文章を書く上で必須項目である。

想像力についての説明を前項にて書いたが、他にも感覚的なこと・・・におい、さわりごこり、話し方のイントネーション・・・・・・人があいまいにしやすい部分を右脳は感じることができる。

この人が好きだな、と直感的に感じることも右脳の働きのひとつだ。

文章を書く上で、感覚的な経験を想像し、それを直感として扱うことは重要なポイントになる。

しかし、ここでこの3つを文章に起こすとしよう、何が起きるだろうか。

すき、この人。きもちいい、におい、いい。(と感じている)

こんな状態になる。

伝わらない状態になる。伝わらないわけではないが、わかりにくいと言おうか。

だから、対峙する論理的に文章を作り上げていく左脳が重要となってくるのだ。

左脳から必要なキーワード

論理性、言語力

この2つは、文章を書き上げる上で必須となる。

前述、論理性は文章を構成していくために必要な考え方と書いた。それを持っているのが左脳だ。

先ほど、右脳は、

すき、この人。きもちいい、におい、いい。(と感じている)

と言葉を作り出したが、これでは脈絡がない。ここで論理性は重要となってくる。

文章をつくるときに、右脳から感じたことを文章として作り上げていくのは左脳のお仕事なのだ。

左脳は、

この人のことが好きだと思った。いいにおいがする彼は、心地よい気持ちにしてくれる。

と文章を作り上げていく。

これが左脳と右脳の違いにある文章力であり、左脳と右脳の協力によって作り上げられる文章だ。

語彙力はどこにある?

当初、

すき、この人。きもちいい、におい、いい。(と感じている)

だったのが、

この人のことが好きだと思った。いいにおいがする彼は、心地よい気持ちにしてくれる。

と右脳と左脳の協力によって作り上げられたが、ではこの中で、「気持ちいい」を「心地よい気持ち」と変換し、語彙力を発揮した脳はどこで働きを見せているのだろうか。

気持ちいい=心地よい気持ち、となるのは、言葉のボキャブラリーの多さになるのだが、言葉の多さは経験値によって変わってくる。海馬という脳の場所が記憶をつかさどる場所とよく言われるが、ここでは左脳の「言語力」の部類に入れてしまおうと思う。

言葉の種類を多く持っている人は、今までたくさんの文章を脳に入れている人、文章を目にする機会が多かった人、小説を読んできた人、という経験値の差になってくる。

つまり、努力次第で、人は言葉を使いこなし、人を魅了していくことができるようになっているのだ――。

文才は経験値で培うことができるのか?

私はここでライトな文才とハードな文才とふたつの部類に文才を分けようと思う。

2つの違いは、想像力をフルに使った文章であるか。

  • ライトな文才は、想像力があまりなくても書くことができる人。
  • ハードな文才は、想像力が多い中、言葉をチョイスして書くことができる人。

ライトな人は自分の経験の話しかできないが、ハードな人は人の経験を自分のもの様に感じ話をすることができる。それは感性のなせる技。言葉のチョイスで人の情緒を表現することは才能がなければできない

文章を書く上で論理性は必須項目なのだが、論理性を重視した文章は誰もがつくりだせる文章にしか出来上がらない。文章の中に情緒が作り出された瞬間、それは感性のなせる技であり才能なのだと思う。そしてそれが人に評価されるのは、情緒がリアルである証拠だ。

感性は人それぞれ持っているもの。人それぞれ感じ方が違うのだからみんなオリジナルな文章を書くことはできるはずだ。

しかし、それは自分自身のことに限ってであろう。人の感情を細かく書きあげていくことは難しい。

人の心は人にはわからない、だからこそ人は人の心を知ろうと思い、感じようと思う。それに長けた人たちが論理性を持った時、文才が生まれてくる。そして、才能を持った小説家が生まれる。

結論的に、文才は経験値で培うことができるのか、だが・・・・・・。

残念ながら、人の経験を自分の経験として取り込む力は、誰しもが持っているものではない。そして、人の情緒の揺れに敏感な人たちは多く存在しているわけではない。

そうした点は才能と言わざるを得んところがあるのが、それに近い形へ持っていくために文章能力を持つことは誰しも努力で培うことができそうだ。

文章を書くことは才能なのか?それとも経験なのか。・・・について。

才能としての部分と経験としての部分、どちらも必要であることがわかっただろうか。

そして、両極端として存在している感覚と論理が繋がり、程よいバランスを作り出した瞬間、人は文才を発揮する

どんなに敏感な感性を持っていたとしても、論理的に説明することができなければそれは文章は読みにくくなり文才にはならない。

どんなに論理的に言語を操り、語彙力を経験として培ってきたとしても、敏感な感性によって適切な語彙を探し出すことができなければ文才にはならない。

文才はバランスの上に成り立っている。

そして、文才はリズム感が必要なんだ・・・・・・という話はまた次のときに話せたらいいな、と思っている。

文章はリズム感が大事なんだ・・・・・・。

2018/08/22

Posted by sanro